永久に破られないメジャーリーグのありえない記録

100年以上の歴史を持つ MLB。

その歴史の中では数々の記録が達成されてきました。

2022年シーズンはジャッジ選手の本塁打記録で盛り上がったのは記憶に新しいところ。

一方、記録の中には、もう今後破られることのないような、ありえない記録もあります。

今回は、そういったありえない記録をいくつか紹介していきます。

目次

シーズンで最も点を取った男・ハック・ウィルソン

ハック・ウィルソン

ルースとも比較された打点王 ハック・ウィルソン

打点をたくさん稼ぐためには、どれだけ自分の前にランナーが出ているのかが重要です。

1人もランナーがいなければ、ホームランでも打点1。

ランナーが2、3塁なら単打でも打点を2稼げるかもしれません。

 

つまり、自分の実力だけでなくチームメイトの実力も大事。

そんな実力と運を味方につけて、不滅の大記録を打ち立てたのがハック・ウィルソン。

 

ウィルソンは1920年代から1930年代初めにかけて活躍した大打者で、全盛期はベーブ・ルースとも比較される選手でした。

彼は、身長168cmながら体重は88kg。

ヒューストン・アストロズのホセ・アルトゥーべが同じ168cmで体重が75kgなので、ウィルソンの体の大きさは相当なものだったでしょう。

 

ウィルソンは、ニューヨーク・ジャイアンツでメジャーデビュー。

最初の3シーズンは平凡な成績で終わります。

 

しかし、1926年にカブスへのトレード移籍でウィルソンは覚醒します。

監督のジョー・マッカーシーの熱心な指導もあり、移籍した1926年にいきなり本塁打王を獲得。

その後1928年まで3年連続で本塁打王。

1929年は本塁打王こそ逃したものの、159打点で打点王。

そして1930年、いまだに破られることのない191打点という凄まじい打点数を叩き出し、2年連続して打点王に輝きます。

 

このシーズンをピークに、徐々に彼の成績は下がり始めます。

飲酒問題や喧嘩っ早い性格が災いし、首脳陣と衝突したり、コンディションをキープすることができませんでした。

 

その後はチームを転々として、1934年に34歳で引退します。

引退後は野球の仕事につくことができず、生活苦だったようです。

ウィルソンは1948年に48歳という若さで死去。

1979年に野球殿堂入り。

 

NPBでは小鶴誠(松竹)が、1950年に記録した161打点がNPB記録です。

MLBと同じく、この記録も不滅の記録としていまだに残っています。

不運の死を遂げた男・レイ・チャップマン

レイ・チャップマン

MLB史上唯一の悲劇に倒れたバント職人 レイ・チャップマン

MLBで犠打というのは、非効率的なプレーということで、近年はほとんど重視されなくなりました。

そんな犠打数のMLB記録はなんと1917年…第一次世界大戦が行われていた頃の記録です。

 

達成した選手はクリーブランド・インディアンスでプレーしたレイ・チャップマン。

俊足と守備力が持ち味の選手でした。

そんなチャップマンは1917年に、コツコツと犠打を決め続けていまだに破られることのないシーズンでは67の犠打を成功させました。

 

実はチャップマンは犠打数の記録のほかにも、野球界に大きな影響を与えるプレーヤーです。

それは打撃用ヘルメットの開発

 

なんと彼は1920年に、頭部へ受けた死球が原因で亡くなったのです。

当時は今のように打者がヘルメットをかぶっていませんでした。

これはMLB史上唯一の、他選手のプレーが原因となった死亡事故となっています。

この事故がMLBでの打撃用ヘルメット導入のきっかけの一つと言われています。

2006年クリーブランド・インディアンス殿堂入り。

 

犠打数は近年減り続けています。

2022年シーズンの個人最多記録はなんと12でした。

これからもこの傾向は変わらなさそうなので、チャップマンの記録は今後も破られることはないでしょう。

 

NPBでは宮本慎也(ヤクルト)が2001年に記録した67犠打がNPB記録です。

やはりNPBでも犠打数は減少傾向にあり、今後、このNPB記録も不滅となっていくのかもしれません。

その名が賞になった男・サイ・ヤング

サイ・ヤング

サイ・ヤング賞に名を残す名投手サイ・ヤング。

勝利数や敗戦数など様々な部門でMLB1位の記録を持っている彼ですが、今後、更新不可能な大記録といえば、この完投数。

サイ・ヤング成績 ©️プロ野球記録

ヤングが活躍した20世紀初頭は選手生命の短い選手が多かったですが、ヤングは22年の現役生活の中で故障とは無縁でした。

 

「サイ」のニックネームは「サイクロン(暴風)」から来ています。

しかし、そのイメージとは裏腹に、ヤングはコントロールがとてもいいピッチャーでした。

コントロールの良さを生かして、バッターを少ない球数で抑えることができたのです。

これが、たくさんの試合に登板していながら、故障とは無縁だった秘訣でしょう。

実際、通算7356イニングを投げていながら、奪三振数は2803に過ぎません。

どちらかといえば、打たせてとるピッチングスタイルといえます。

また、スプリングトレーニングでの投げ込みの制限など、肩や肘の負担を減らそうと工夫していたことがうかがえます。

 

数々の伝説的な記録を打ち立てたヤングは、1937年に野球殿堂入り。

1955年に88歳で生涯を閉じます。

 

現役当時から人気のあったヤング。

死の翌年にそのシーズンの最優秀投手を表彰するサイ・ヤング賞が設立され、彼の名前が賞の中に残ることになりました。

投手の分業化が進んだ現代では完投の数は減っています。

 MLBの2022年シーズンでは、リーグ全体で完投数は36。

ヤングは、1人でこれくらいの完投数を毎シーズン記録していたので、この完投数の記録の凄さが分かります。

 

NPBでは金田正一(国鉄など)の通算365完投が最多完投数です。

この数字も凄まじいですが、このほぼ2倍の完投数を達成したサイ・ヤングはまさに超人的なピッチャーと言えるでしょう。

世界一指揮を取った男・コニー・マック

コニー・マック

選手だけでなく、監督でも不滅の記録が生まれています。

それは、コニー・マックの連続指揮年数です。

 

キャッチャーとして現役時代に活躍したマックは、1901年フィラデルフィア・アスレティックス(現オークランド・アスレティックス)の球団創立に関わります。

そして、そのまま共同経営者としての立場で監督も務めました。

 

当時としても珍しい、スーツ姿で指揮をしていたマックは、なんとそのまま50年間連続してアスレティックスの指揮をすることになりました。

その50年間でワールドシリーズを5度制し、監督としての通算勝利数、通算敗戦数の両方で MLB1位の記録を打ち立てています。

 

彼は監督として、選手に強い規律を求めました。

野球選手としてだけでなく、人間としても立派な振る舞いを求めたのです。

彼自身も穏やかな紳士で、アスレチックスの指揮をとった50年間で退場したことはありませんでした。

攻撃面ではパワーのある選手を好み、細かい野球よりも、長打を生かした打線を組みました。

一方で、守備面では選手の守備配置を巧みに変えることを初めて行いました。

 

また、1934年にはMLB選抜の監督として、ルー・ゲーリックやベーブ・ルースとともに日米野球のために来日をしています。

徐々に戦争の影が伸びてきている時期でしたが、日本人と日本野球を非常に高く評価していたことでも知られています。

 

1956年93歳で死去。

最後までグラウンドで野球界に貢献し続けた人生でした。

1937年野球殿堂入り。

 

現代の MLBでは監督ではなくフロントが大きな権限を持つことが珍しくありません。

フロントの意に沿わなければ、すぐに監督交代ということも起こっています。

また、マックの長期政権の要因は、彼自身が共同経営者(途中からはオーナー)だったことにもあります。

しかし、現在ではオーナーが監督やコーチとなることが禁止されているため、この連続指揮年数の記録は不滅の記録と言っていいでしょう。

 

NPBでは南海ホークスを率いた鶴岡一人が23年連続で指揮をとっており、NPB記録となっています。

また監督としての勝利数記録1773 勝も鶴岡一人の記録です。

 

 

いかがでしたでしょうか?

大記録を達成するためには、本人の実力とともに、チームメイトや指導者に恵まれている必要があります。あるいは、ルールや道具の手助けも必要です。

偉大な選手・監督というのはそういった実力と運を兼ね備えている人なのでしょう。

今シーズンはそんな選手が登場するのか?

ワクワクしながら観戦したいですね。